ビデオ判定は誰のために?導入の是非を改めて問いたい
日本プロ野球では、誰もが納得するジャッジを確保することを主目的として、2010年にビデオ判定が導入された。しかし、その一方で、導入に関してファンの間で是非が問われていることも事実である。ここではビデオ判定の存在意義について考えてみたい。
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2017年10月28日:用字用語の整理。
ファンは本当にビデオ判定の導入に賛成している?
審判も生身の人間であり、必ずしも完璧なジャッジが常時できるわけではない。瞬間的なプレーのスピードに付いていけなかったり、立ち位置によっては見づらかったり、天候によっては正確な判断が難しい場面もあるだろう。4人審判制の議論に余地があると言われるゆえんだ。
その際に映像を使用しての客観的な判定は、皆が首を縦に振る手段となる。しかし、プロ野球ファン全てがビデオ判定の導入に首肯するかといえば、必ずしもそうではない。
- 試合の流れが途切れる。
- 審判のミスも野球の一部だ。
- いちいちビデオ判定をしていたら、審判の威厳が損なわれる。
などの声が聞かれているのも確かなのである。野球ファンであれば誰もがミスジャッジなど望んでいないし、解せない判定で試合が決することなど、あってはならないと考えているはずである。
ただし、ビデオ判定をしてまでジャッジを行うことに、違和感を感じるファンも存在する。それはなぜだろうか。
プロ野球ファンは、一流の選手による洗練されたプレー、生身の人間が繰り広げる感動や筋書きのないドラマ、熱い試合が何より見たいのだ。ビデオ判定に肯定的なファンも否定的なファンも、真に欲しているのは単純にプロの白熱した試合であり、審判のジャッジはあくまで脇役にすぎないのである。ビデオ判定が主役である野球の邪魔になることに、嫌悪感や違和感を抱かせるのではないだろうか。
最優先されるべきは審判の技術向上
審判のジャッジがドラマになることもある。しかし、そこに感動を覚えるとの見方もあるが、悲劇的なシナリオになりやすい。極論すれば、審判がミスジャッジをしなければ、ビデオ判定を導入する必要はない。ファンもその都度、試合が中断することを望んではいないだろう。
しかし、常に十全なジャッジは不可能である。だからこそ審判は、言わずもがな、その技術向上に努めるべきである。そして、ビデオ判定は稚拙なジャッジを補うものではなく、正確な判断が難しい場面で使用される二次的なものでなくてはならない。
最優先されるべきはビデオ判定の必要のない、安定したジャッジを行うに足る審判の「質」なのである。
プロ野球は誰のためにある?
プロ野球は公共文化財である。野球を愛する全てのファンのものである。
その視点に立ったときに忘れてはならないのは、プロ野球はファンのためにあるということだ。不可解な判定の回避や皆が納得する判定を確保するためのビデオ判定導入は、ファンが望む本質ではない。
ビデオ判定はあくまで高いレベルのジャッジを補完するためのものであり、不可抗力で審判の目が及ばなかった部分を補うことが目的でなくてはならない。ビデオ判定によってミスジャッジのない試合がベストなのではなく、質の高い審判による流れを切らない、ファンが無意識のうちにのめり込める試合こそがベストなのだ。
まとめ
ビデオ判定が導入され、行く末はストライク・ボールの判定もセンサーで感知する。私はそんな時代が来てほしいとはゆめゆめ思わない。
なぜなら、「これ、ボールか」「セーフだ」と緊迫した試合で手に汗を握りながら、ジャッジに一喜一憂する。それも野球というスポーツに欠かすことができないスパイスであるからだ。
ファンのためのプロ野球であるからこそ、ファンが求める本質を見失うことなく、新ルールの議論がなされていくことを望みたい。
昇給の誤審であれば大いに歓迎だとのご意見もあるようだが、声を大にして「アウト」と告げておきたい。
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